プロフィール

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1971年

 宮城県石巻市で、食堂を営む両親のもとに長男として生まれました。両親が働いている間は、食堂の片隅で絵本をずっと読んでいて手がかからなかった子だったとか。常連のお客さんが散歩に連れていき、新しい服を買ってもらって帰ってきたこともあったそうです。

1978年

 石巻市立山下小学校に入学。「山下」という学校名とは違い急な坂の上にある学校でしたが、教室から太平洋が見通せるバツグンの環境でした。高学年のときに野球部に入り、市内唯一の女性監督(事務職員の方でした)のもとでレフトのレギュラーに。

1984年

石巻市立石巻中学校に入学。視力が落ちてボールも見えづらく、野球部ではスコアラー中心に。英語が得意だったこともあり、将来は教員になろうかと漠然と考え始めました。

1987年

 宮城県石巻高等学校に入学。当時は男子校で、入学間もなくの応援練習に面食らうもののすぐ校風に慣れました。年3回の校内紙を発行する新聞部に所属。当時の担任の紹介で小学生の家庭教師(というより遊び相手)をするなかで、進学先を教育大学と決めました。

1990年

 宮城教育大学C類課程に入学。C類は障害児教育教員養成課程の総称で、3年生になり言語障害児教育教員養成課程へ。友人の意欲の高さを前に、試験の点数が足らずにこの過程を選んだことを恥じました。ボランティアや自主ゼミナール、学生自治会の活動のなかで信頼できる先輩から日本共産党への入党を誘われました。
 当時は湾岸戦争の開戦、東欧・ソ連の崩壊など国際的激動の時代。子どもたちに平和な社会をと願い、何か自分にできることは考えていたときでしたが、どちらかと言えば日本共産党には偏見の目を向けていました。しかし、自民党政権のもとで教育政策がゆがめられ子どもたち(当時の自分)が苦しめられてきたこと、過去の侵略戦争に日本共産党が命をかけて反対した歴史を知り、さんざん考えた末の入党でした。

1994年

 仙台市立蒲町中学校で臨時教諭でありながら担任を持ち、初めての教壇に緊張の毎日でした。翌年、苫小牧市立明倫中学校に赴任。経験の浅い担任に、きっと子どもたちは苦労したことでしょう。いじめや不登校などが社会問題化するなかで、困難を抱える子どもたちと向き合うことを中心にした仕事に進みたいとの思いが強まりました。それなら若いうちにと退職を決断。

1997年

 北海道教育大学大学院釧路校に入学。大学院で学び直し、児童相談所で働きたいと考えてのことでした。親の仕送りを受けず、奨学金とホテルのレストランでのアルバイトで生活していました。レストランで朝5時半から昼まで働き、午後から講義やゼミという毎日は結構しんどかったものの大きな財産です。何より、このレストランで今の妻とも出会うこととなりました。

2000年

 試験を控えていた時期に「党の専従職員となってほしい」と話を受けました。子どもたちを守る仕事は、現場とともに政治の世界でも必要だ――との話は理解もできましたが決意には時間がかかりました。両親には手紙を書き、電話で怒られもしましたが突っ張る形で党北海道委員会の専従となりました。しばらくは青年学生分野での活動を、中心におこないました。

2007年

 05年11月に「参議院選挙の候補になってほしい」との要請があり、専従職員となった以上は腹を固めなければと引き受けました。やっぱり動機は「子どもたちの未来のため」。2007年と2010年の参議院選挙区候補、2012年の衆議院比例北海道ブロック候補と3度、国政選挙をたたかいましたが落選。「二大政党」「第三極」という政治情勢のもとで厳しい選挙でしたが、道内各地をまわって願いを聞き「現場の声を届ける政治家」としての活動を続けてきました。

2014年

 第47回衆議院議員選挙にて、比例北海道ブロックから初当選。日本共産党の議席は、2000年の児玉健次前衆議院議員以来となりました。

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